本の紹介『うまんちゅぬすくぢから』(石原昌家著 1979年 晩聲社)


『うまんちゅぬすくぢから ―アメリカのカイザー資本・琉球セメントと闘った民衆の記録』(石原昌家著 1979年 晩聲社)

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辺野古ではお馴染みの北上田毅さんのブログ「チョイさんの沖縄日記」1月10日の記事で、この本を知った。


著者である沖縄国際大学名誉教授の石原昌家さんは、沖縄戦の体験者の聞き取り調査を基に日本軍による住民虐殺などの事実を掘り起こし世に問うてきた社会学者だ。琉球新報に長期連載している『沈黙に向き合う~沖縄戦聞き取り47年』は貴重な記録であり、琉球新報電子版の購読者である筆者も欠かさず目を通している。

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(本書から。1969年の「煤塵被害抗議区民総決起大会」横断幕と工場の煙突)

米軍支配下の沖縄で巨大な米国資本傘下の企業を相手に立ち上がる人々


時代は「復帰」前の1960年代、舞台は沖縄島北部、名護市の北西に位置する屋部村安和区。屋部村は1970年に名護町、東海岸の久志村などと合併し名護市となる。現在、辺野古に土砂を搬出している琉球セメント安和桟橋のあるところだ。「1960年初期のころまでは、美しい山並みを背に、帯状に広がるエメラルドグリーンの海に面した、静かな農村であった」(P8)。1964年末、この小さな村に、公害問題が降ってわく。セメント工場が操業を開始するとともに、「連日連夜悪臭を伴うセメント煤塵がモクモクと排出された。それは安和部落全体を包み込んでたなびくという状況となり、あっという間に村のたたずまいを一変させてしまった」(P56)。亜硫酸ガスを含んだ煤塵は、隣の勝山区にも降り注ぎ、農作物の成長を阻害し、山羊など家畜の変死も多発、煤塵が目に入り半失明となる被害も出た。1969年6月29日、「安和・勝山部落のセメント煤塵による被害住民は、四か年半余にわたる被害にたまりかねて、ついに組織的抗議行動に立ち上がった」(P70)。米軍支配下の沖縄で、巨大な米国資本傘下の企業―琉球セメント会社を相手に、「部落の独自性と普遍性を持った住民の公害反対の闘いが展開された」(P8)。

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(本書から。セメント工場正門前)

長時間の団体交渉で譲歩を勝ち取る!座込み実力行使で8日間工場を封鎖


本書の白眉は数百名の住民が見守る中で長時間にわたって激論がたたかわされた団体交渉の場面だ。実際の録音から迫力あるやり取りがそのまま再現されている。団交で「一貫しているのは、住民側の論理が常に会社重役側を圧倒していることだ」(P150)。第1回目が午後一時から夜九時半、2回目が午後一時から翌朝八時、「団交を見守る住民は、深夜に及んでも、一時休憩に帰る程度で立ち去る人もなく、まるで夜祭の観を呈していた」(P11)という具合だ。当時の安和区の人口が253世帯1100人、勝山区65世帯294人というから、文字通り地域ぐるみの闘いと言える。第3回目の団交では、筆頭株主である米資本・カイザー社派遣の専務を相手に論争を展開し、重要な内容を持つ誓約書を取り付けることに成功する。その後、誓約書に反して煤塵をまき散らし続けるセメント工場の門前に住民250人が押し掛け、8日間に渡って座込み実力で工場を封鎖、稼働停止に追い込む。1969年6月の被害住民の総決起大会から1971年7月の被害補償の調印妥結まで丸2年に及ぶ苛烈な闘いが展開され、一定の被害補償と煤塵降下量も激減させる成果を勝ち取った。
地域ぐるみの粘り強い取り組みと座込み・実力行使―現在の辺野古闘争につながる名護市民の闘いの原型を成すように思われる。著者は、最後に「1 村落の世襲的役職者支配の構造を崩壊させ、民主的な村の運営が可能になったこと」から「13 名護市の先進的な公害行政は・・・セメント公害反対闘争が大きく影響していると思われる」など13項目を「闘争の成果」として挙げ、本書を結んでいる。


琉球セメントの沿革―米国資本系列会社から日本の国策企業傘下へ


さてここに登場する「琉球セメント」(1959年創立)こそ、現在の辺野古に土砂を搬出している琉球セメント㈱の前身の会社だ。1963年に巨大米国資本・カイザーセメント社の系列下に入った。琉球セメント㈱のHPで「沿革」の頁を開くと、「復帰」後の1976年5月にカイザー社持ち株が宇部興産㈱に譲渡されていることが分かる。その後独占禁止法に抵触するとの公取委の指摘を受けて宇部興産㈱の持ち株を引き下げたが、現在もその影響下にあると指摘されている。宇部興産㈱が地元山口出身の安倍晋三首相と結びつきが深いのは言うまでもない。米軍占領下には米国資本傘下にあり、日本「復帰」=再併合後に日本の国策企業の影響下に入り、現在は安倍政権が強行する辺野古埋め立て事業の利権に食い入り、甘い汁を吸う。それが沖縄の「土着企業」と言われる琉球セメント㈱のもう一つの「顔」だ。


「神様みたいな人」吉元栄真とは・・


もう一つ、書き留めておきたいことがある。琉球セメント社代表として住民との交渉に臨んだ吉元栄真という人物の果たした役割だ。吉元栄真は「旧屋部村の村長を1950年から2期も務め、その後立法院議員となって沖縄の中央政界に進出し、自民党のウニグヮー(鬼小)幹事長として異名を馳せた」(P8)。「村長時代には、戦火に荒れた村の再興に手腕をふるい、信奉者からは『神様みたいな人』とすら言われた」(P10)。1968年の首席公選では沖縄自民党副総裁として西銘順治候補の副選対委員長を務め、東京に出向き日米両政府から巨額の選挙資金を調達したとされる歴史上の人物だ(USCAR(琉球列島米国民政府)文書の公開により多額の資金調達に米CIAの関与も裏付けられた(2000年6月5日、7月16日琉球新報))。
吉元は1950年に村長に就任すると、セメント工場誘致を最優先課題に掲げて、工場用地を強引に確保した。「村の有力者を交渉要員にすることによって、いわゆる村の共同体的組織を利用し、住民の意思を封じ込めつつ、土地を買い叩いたというわけである」(P54)。立法院議員に転じてからも工場実現に奔走し、1964年12月の琉球セメント工場落成式典では、屋部村から「感謝状」を贈られている。
この地元にとって「神様みたいな人」、「中央政界とのパイプ」を売り物にする買弁政治家が、宗主国・資本の代理人となり、歓迎されざる開発や国策を島々に押しつけていく。沖縄戦から75年、軍事植民地・沖縄でいまも繰り返される現実だ。(2020.3.24脱稿)

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